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​てんだいしゅうべっかくほんざん
しょうかくさん
あんらくじ
​れんぜんいん
えんかく

  天台宗別格本山 正覺山 蓮前院 安樂寺 沿革

 当山は今を去ること遠く延長七年(西暦929年)、醍醐帝の御世菅原道真公の遺子三郎影行(さぶろうかげつら)に依り大生郷(おおのごう)天満宮の別当寺(べっとうじ)として現在地の北方柏木(かしわぎ)の地「古寺家(ふるじけ)」に創建された。

 安樂寺と大生郷松高山(まつたかやま)に遷座(せんざ)された天満宮は共に筑紫国太宰府天原山安樂寺天満宮(つくしのくにだざいふてんげんざんあんらくじてんまんぐう)と同名にして同地形の寺社を開基(かいき)されたのがその濫觴(らんしょう)という。

 爾来安樂寺の寺号(じごう)は太宰府安樂寺に由来し、ご本尊を阿彌陀如来とし極楽浄土の安樂世界を欣求(ごんぐ)して修行する念佛の道場として今日に至っている。

 山号(さんごう)を「正覺山」と改めたのは天正年間(1578~1591)相模国(さがみのくに)北条時氏(ほうじょうときうじ)の第五子五郎時光(ときみつ) 見眞大師親鸞上人(けんしんだいししんらんしょうにん)相州(そうしゅう)鎌倉にて一切経(いっさいきょう)校合(こうごう)の砌(みぎり)其の法徳(ほうとく)を慕いて弟子となり法名(ほうみょう)を西覆(さいふく)と授かり聖人御真筆(しょうにんごしんぴつ)「光明本蓮座阿彌陀如来(こうみょうほんれんざあみだにょらい)」一軸を奉持して聖人共々当地へ下り念佛弘通(ぐつう)の為一宇を建立し寺号を光明山(こうみょうざん)修徳院(しゅとくいん)北条西覆寺(ほうじょうさいふくじ)とし見眞大師滞錫の霊場として榮え輪奐を極めたが、北条氏政(ほうじょううじまさ)関東を掠略せんとして下妻城主(しもつまじょうしゅ)多賀谷氏(たがやし)と交戦するに及び北条西覆寺を本陣となした為下妻勢の放った兵火に依り全山悉く烏有と化し戦乱治まりて後、多賀谷候により安樂寺は「古寺家」より現在の「満藏(みてぐら)」に移され、伽藍を建立した時の住持(じゅうじ)定海法印(じょうかいほういん)を中興第一世となし山号を正覺山と改めた。

 寛永20年(1643)3月4日山門三院執行探題大僧正天海(さんもんさんいんしぎょうたんだいだいそうじょうてんかい)に依る下総国(しもうさのくに)豊田郡飯沼庄(とよだごおりいいぬまのしょう)正覺山蓮前院安樂寺掟書が現存し條々拾伍箇條に亘り細かく制戒が定め置かれ先ず天下安全の祈祷を成し、次いで毎月17日東照大権現(徳川家康公)御法樂を勤めるべきこと、國司の制法に背いて私に検断(判断・判決)を致すべからざること、徒党を組んで公事の沙汰(訴訟)致すべからざること等々、末寺(まつじ)門徒寺(もんとでら)悉く本寺(ほんじ)の下知(げち)に従うべき旨厳しく申し渡されている。

 慶安年間(1648~1651)徳川三代将軍家光公により御朱印20余石を賜り慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正をして国家安泰の祈祷を執行され久遠壽院一品法親王(くおんじゅいんいっぽんほっしんのう)は東叡山寛永寺に勧学寮(かんがくりょう)(学問所)を創設され、関東29箇寺の特待寺(とくたいじ)を定め同学寮の業を卒えた講師をして当山の住持となすことを制定し、法親王の諮問にあずかる伴頭職拝領寺(ばんとうしょくはいりょうじ)とした。また、旧幕時末寺門徒寺塔頭夥多(たっちゅうかた)60箇寺を有したが維新の際38箇寺と減じ、明治36年には遂に28箇寺となったが、今尚寺域2万2千坪を有し静寂閑雅巧妙なること近国に稀なりと語られる。一度境内に歩み入れば心身不空にして解脱を得べしと。

 当山特別崇信の元三大師は寺伝に依ると、境内に今も現存し枯れること無く湧出している権者井戸(ごんじゃのいど)井中より出現したと伝えられ、また一説には徳川御宗家家光公のお世継ぎ祈願の為天海大僧正、幕閣第二代大老土井遠江守利勝公(どいとうとみのかみとしかつこう)、春日局が相諮(あいはか)り遠く平安時代の護持僧元三大師良源(りょうげん)大僧正が霊験灼(あらた)かに中宮様に帝のお世継ぎの皇子を誕生させた故事に習い東叡山寛永寺に元三大師を勧請(かんじょう)され、更に江戸城の鬼門に当たる当山に直々に元三大師を勧請され、以来江戸城鬼門除けの祈願寺として榮え今日にいたった。御朱印等については領主土井遠江守の助力要請ありて、大いに與り当地域天台宗有力寺院としての確立がなされた。

 第54世住職落合寛茂(おちあいかんも)大僧正駒込中学同級生日本野鳥の会会長中西悟堂(なかにしごどう)氏はかつて当山を訪れ野鳥天国と讃えられた。また寛茂大僧正上野美術学校日本画科同級生文化勲章受賞者日本画家山口蓬春(やまぐちほうしゅん)画伯も度々当山を訪れ清韻溢るる画趣豊かな絵を七条袈裟(しちじょうげさ)に書き残されている。寛茂大僧正は戦前戦後を通じ地元先輩代議士風見章(かざみあきら)氏と共に活躍し、昭和38年風見氏の意思を継ぎ天台宗初の衆議院議員となった。奥州平泉中尊寺貫主直木賞作家今東光(こんとうこう)師(法名春聴(しゅんちょう))は、当山元三大師施無畏講(せむいこう)創始者第五十三世住職弓削俊澄(ゆげしゅんちょう)権大僧正の弟子となり出家得度(しゅっけとくど)された。今東光師は天台宗初の参議院議員となった。落合寛茂師・今東光師の若かりし頃のエピソード人間み溢るる数々の逸話、恩讐のドラマは今も土地の古老に依り語り継がれ、寺にも幾つかの興味深い資料が残されている。

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